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アイユーゴー ?途上国の人と共に?

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ピロリ菌

胸やけがするからと主治医に伝えると、内視鏡の検査をしましょうと言われ予約をして帰った。それから、予約日にほぼ半日の断食をして病院に向かった。その結果を先週聞いた。小生は食道がんでも発生していると、その進行は早いと聞いていたので、覚悟して臨んだ。医師が差し出した撮影された画像を見つつ、胃にピロリ菌がいます。ええ、がんはないです。1週間3種類の抗生物質が入った薬を朝夕飲みましょうと言われ、その1週間をこの火曜日に終えた。
 その最後の薬がどういうわけか強烈だった。下痢、嘔吐が頻繁に来るようだと医師に連絡をくださいと、処方箋に書かれてあるのをみて、昼前の出勤時間にタクシーの中から電話した。症状を細かく伝えて、帰ってきた言葉は、様子を見よう、それだけで、すぐさま終わった。30分に一回のトイレ、胃が絞られるような痛み、横になりたくてどうしようもない。学校の授業は、この時期のいわば広告を出して、その授業だけに来る生徒を対象にした自分自身がするイベント授業だから、替わりはいない。翌日は、ほとんど椅子に座って授業をした。それでも、舌の周りが悪い。「プロジェクト」を「ブラジャー」と言ってしまって、笑われた。舌のみならず、頭までどうかしているのでは。
 昨日、病院に行って、どうしたもんだと相談した。ピロリ菌が除菌されたかは後日検査しましょう。しかし、血が出るのは、どうなんだろうねということで、検査することになった。
 年をとると、いろいろ出るね、いろんな病気があるもんだと、人からよく聞く。それと同時に、教えられた、病気になれば、出会った知り合いにその病気の話をすること、意外と、さまざまな情報を提供してくれるよと。そうか、考えてみれば、その情報を聞いて喜んでいるうちは、まだ生きているのだ。生きたいと思っているのだ。感謝、感謝。

休日

今日は日曜日。今から2時間30分前に目がさめ、朝ぶろに入り、少し散歩して、画面の前に腰かけたところだ。明日も文化の日でお休み。両日の午前中は、実力試験が迫っている中学3年生の勉強をみなければならないが、ほとんどが自分の時間だ。何をしようかと考えるとどことなく嬉しくなる。
 実は、一昨日の金曜日、大学祭の準備のため休講だった。そのことを知ったのはその前日、帰りの電車の中で大学の仲間から知らされた。ましてや、その昼からも仕事があったが、これもしなくて済むことになった。飛び跳ねるように心が弾んだ。何をしようか、そう思うことが、そう思うことができることがとてもうれしかった。とりあえず、今までできなかったことを。この日は、中学生の塾教材を探しに、本屋回りをすることにした。天王寺の大きな3つの本屋には思うものがなくて、梅田まで足を延ばした。3軒目にやっと見つけたが、冊数が足りない。注文すると2週間かかるという。熊取に帰り、駅に駐車していた自動車に乗って、泉南ジャスコの旭屋に行こうと思い立った。梅田から熊取まで、50分から1時間かかる。電車に乗ると心地よい揺れに誘われ、居眠り。居眠りといえるのだろうか、熟睡状態だったから。熊取駅手前で目が覚めた。大阪駅を出るときは満席状態だった席もガラーンとしていた。眠ったおかげで、背筋がピーンと伸びて、さて!と気持がジャスコに向かった。熊取駅に止めていた自動車でのドライブは快適だ。なんとジャスコまでの道のりは大阪湾を右に見て、波の寄せる音が聞こえるほどの沿岸をスイスイと走ることができるのだ。到着して本屋に入ると、探していた本がすぐに見つかった。冊数も十分。これでいい。ほっと一息を入れて、目を一面が窓になっている方向にむけると、額縁にその景色がすっぽり入っているように、関西国際空港そしてその向こうにぼんやり霞みがかかった淡路島が見えた。
 自分の自由な時間があるのはいい。朝10時前に出て、帰宅したのは4時前。心地よい疲れを感じた一日だった。
 さて、今日、明日、何をしようか。まずは、タイの農業センターのソムヨッツにこれから6月までの予定を、ラオスの代表にカッファには来年度予定している図書館建設、小学校建設の事業が円滑に進むには何が必要かの指示を出す、ベトナムのダラット大学のタイ教授には12月の合同セミナーの予定の再確認、そして、レートなどを勘案してそのセミナーでの見積もりに変化はないか、など、のんびり聞くことにしよう。まずは、メールでそれぞれ内容を知らせ、事務所から電話で確認しよう。そう思うと体が自然に動き始めた。
 ゆっくり、のんびり行こう、今日は。

 すっかり秋になった。豊かに実りこうべを垂れた稲が、小生の周辺の田んぼから消えた。その田んぼの周りを枝が折れんばかりに実った柿が色を添えている。いいですね。そればかりでなく、ひやりと感じる秋は身を締めてくれる。
 秋、食欲旺盛。メタボ?そんなものにお気をとられて、何ができよう。今朝も朝食に皿うどんを作って食べ、それから4時間後に学校でコンビニの弁当を食べ、さらに、それから4時間のちにコンビニのお好み焼きを食べた。20時40分に天王寺発の電車に乗る親友の一人であるアメリカ人を待つために、駅でてんぷらうどんと稲荷寿司2ヶ。その前の食事のちょうど4時間後のことだった。いや、実に元気。仕上げに、電車に乗り、あらかじめ買ったアサヒのスーパードライ(500)で乾杯。
 飲むと話が弾む。読書の秋もよいが、おしゃべりの秋もいい。電車の中で彼と取るに足らない神学論争ならぬ哲学論争が始まった。神の存在いかん?彼は絶対的無神論。眼に見え、その証拠をつかまないと信じられない。彼が無神論を確信したのは、いやあるいは無神論たるべき教育を受けたのは祖父と父親という。現在、彼は大学で英語を教えている。つまり、言語の世界にあり、レトッリクの中にいる人物。それだけにさまざまな事象に関心があり、よく知っている。それが、宗教の話になると、いっこうに聞く耳を持たない。彼は、まるで父と祖父の時間から抜け出ようとしないかのようだ。たとえ神がね、と言おうものなら、違う!お父さんにそう教えてもらったんだと跳ねのける。小生は、信じるもよし信じないもよしとしている。しかし、宗教、神という言葉の持つ意味は、荘厳に違いないと考えており、思ってもいる。なぜなら人間が想像できる最大のものがその宇宙だと思うからだ。とりあえず、宇宙論に関して彼のイマジネーションに花が咲くのはもう少し先。来年の春まで待つか。
 まあ、どちらにせよ、彼も小生も議論好き。「見る人の心心にまかせおき、高嶺にすめる秋の夜の月」とうたった新渡戸稲造も議論好きだった。
 秋を満喫するには、山?明日のその山にのなかにある温泉で、一つ休憩とするか。(大学が学園祭の準備のためお休み)

NGO

4日前に電話があった。2年前にレンガ館でお会いしたものですが、覚えていらっしゃいますでしょうか、と言って名前を言われた。団体の名前は、不思議と心に残っていた。いつかお会いしましょうと言ったはずの団体だから。しかし、その人の名前を聞いても、その団体とピタッと結びつかなかった。それでも、いいですよといって、お会いする日時をあの日のこの時間、いやこの日のこの時間と話すうちに、日時が決まって、それではよろしくと言って、電話を切った。用件を聞かないうちに。
 それから、この金曜日、昨日14時に2人の方が約束の10分前に事務所に訪ねてこられた。1時30分に入り、机とテーブルの上を片づけたすぐそのあとのことだった。隣の市のNGOの代表と理事で、2人とも女性。団体は、いわゆる国連の経社理の資格を持った大きな組織であり、幅広い地域で支援されておられるNGOのリーダーたちだ。
 たまたま、昨日毎日新聞に掲載された小生の記事が机の上にあったので、お見せしたとたん、さて、こちらが先にとばかりに、本会の活動紹介を始めた。一通りの話しが終わると、今度は、女性が、2,3の資料を出され、その団体の活動内容と、今日訪問した理由をにこやかに話し始められた。
 女性が中心の団体で、プロジェクトの話を伺うと、アジアの広域な範囲で、貧困の子供や女性たちを対象にとても細やかな配慮をもって救援活動をされているという印象を受けた。お話をうかがっている間のお二人のまろやか(mellow)な感じが一層そのように思わせたかもしれない。
 アフガンを支援していて、その支援金を集めるために、このたび講演会を開催することになりました。コメンテーターになっていただけますでしょうか。講演者は以前外務省にいてアフガンに赴任した経験を持ち現在大学教授とのことだった。どうして僕ですか。聞きに行くのは構いませんがといって、話をそらしていると、チケットを出された。
 ここのところよく思うことで、理解できれば、そのNGOに協力し、NGO同士が市民活動を盛り上げなければならないといった気持があるから、1000円のチケット5枚を買うことにした。この日の朝、お小遣いの前払いとして妻からもらったばかりの1万円を差し出した。いいだろう、明日、残りの小遣いをもらえるから。

雑念

今日、学校で浪人1年生が小生を訪ねてきた。物静かな男性で、いつも何かを考えているように見受ける。勉強が進んでいるのかと尋ねると、今少しずつ調子が出ているようですといった風に答える。その彼がこちらが差し出した椅子に腰かけると、じっとこちらを見て、それから目を下に落して手元を見ている。どうだ、と話しかけると、先週の授業で「work]の意味を作品・著作と訳したけど、研究と訳すべきではないでしょうかと言った。これは筆者が述べていることの引用部分を言っているのだから、作品もしくは著書でしょうと答えると、ああ、そうですね、と意外と簡単に認めた。すると、「最近雑念が多くて困るんです」と言った。「そりゃ、人間の証だ」、キョトンとする彼に、「雑念とは、人間の皮膚にある産毛のようなものだ」というと、黙ったままこちらに耳を傾けていた。
 小生が、人から直接に「雑念」という言葉を聞いたのは大阪外大のフランス語の教授であった中原俊夫(フランス語辞書の編纂者でもある)先生からだ。「大阪外大の先生はどうして我々学生のためのフランス語の教科書を書かないのですか」と言ったことから、ある日、「私の家に遊びに来ないか」と言われて、訪ねた。応接室で、ほら、今書いていますよと差し出された原稿を見て驚いた。たしかにネズミの這うような字でぎっしりフランス文法が書かれていた。。(当時その大学のフランス語の教科書は東北大学の教授など外部の人たちのものだった)それを見て、ちょっと外を歩かないかと言われ、歩き始めたとたん、その先生から「最近雑念が多くてね」と言われた。まだ、小生も若かったせいで、その雑念の意味を尋ねることもなかった。
 しかし、今考えてみると、「雑念」こそ、その人間の可能性をはかる何かがあるのではなかろうか。皮膚の産毛のようにある「雑念」というさまざまな思いが、その人そのものを形成している思念ではなかろうか。そしてその思念のいくつかが、その人を人間として育てていることになるのではないかと思うところだ。
 しかし、面白い生徒だ。

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